身ノ程知ラズ

日日是好日でいこう

悠久の時を感じられた旅 青森

青森県立美術館
この美術館はシャガールの作品で巨大なバレエの舞台背景画「アレコ」を所蔵しています。美術館に入って最初の展示室は、大きな吹き抜けの「アレコホール」で、「アレコ」を展示するために設計されたホールになっています。「アレコ」は全4幅あり、このうち第1・2・4幕を青森県が所有していて、残りの1幅(第3幕)はフィラデルフィア美術館にあります。ちょうどこの美術館が改装中で、第3幕が青森県に貸し出されていて、24年3月まで全4幅を揃って鑑賞できます。「アレコ」を一堂に見ることができる機会はそうないでしょうから、観れるうちに行っておきたかったのです。

ド迫力のスケール

フィラデルフィア美術館から貸し出されている第3幕

圧巻のスケールでため息しか出ない。どれだけ見ていても飽きなくて、奈良美智さんの企画展も含めて3時間があっという間。

平日の月曜日のわりにお客さんも多くて、駐車場はレンタカーのほうが多い印象でした。遠くからでもわざわざ観に来る価値があると思ってる方が多いんだろうなぁと。地方にはこういう素晴らしい美術館が他にもある。あたしにとって、美術館はアート作品の素晴らしさで、潤いと深みを与えてくれると同時に、自分とは違うモノの見方や表現の仕方があるのだという当然の事実を再認識させてくれる場所。あたしは、自分で自分をコントロールできるようなしっかりした人間ではないけれど、美術館に来ればいつもより少し落ち着く、謙虚になれることを知っている。こういう場所の存在があるだけでも、あたしの人生は豊かになるんだと思う。

美術館の後に立寄ったのが三内丸山遺跡センター。
美術館から道路一つ隔てて、車で2分くらいの距離。5000年前の縄文時代の生活の営みが再現されていてとても勉強になった。ここのミュージアムを見て驚いたことは3つあって、一つは、まだ農耕が始まっていない時代で、弥生時代のように農業生産をするまでには至らないんだけど、植物を育ててその果実を得ていたってたこと。栗の木を育てていたと考えられているんですよね。木を植える(植林)という発想が新鮮だった。

栗の木を植えている様子

二つ目は縄文時代にすでにお酒があったということ。当時はまだ稲作が始まっていない時代で、米から造る酒ではなくて果実酒。果実酒(ワイン)はキリスト教や鉄砲といっしょに1500年代に日本に伝来したものと思っていたんだけど、それ以前に縄文時代の人々は、山からとれる果実でお酒を造っていたと考えられるのだそうです。ほんと驚きだよね。

発酵しやすいニワトコの種がたくさん出土している

三つ目は縄文時代の「釣り」のレベルの高さ。なんと50種類以上の魚を採っていたことが遺跡から出土した魚の骨の分析から分かっている。中でも一番多いのが鰤(ブリ)なのだそう。こんな回遊魚を一体どうやって捕まえるんだ!?というところなんですが、銛や釣針がたくさん出土しているんです。とはいえ、釣りが趣味のあたしからすると、現代のようにリールとかPEとかメタルジグがない時代に、1日にどれくらい釣りあげたのだろうかと興味は尽きない。

現代の釣針に比べると原始的、針かかりはどれ程のものか

県立美術館で現代アートの素晴らしさに感動したのだけれど、道を挟んですぐの遺跡から発掘された5000年前の縄文土器翡翠のアクセサリーを見て、悠久の時の移ろいを感じずにはいられなかった。この二つのミュージアムが隣接してあるっていう立地もいいよね。

今回は弾丸旅行で青森の滞在わずか4時間だったけど、充実した1日だった。本当に来てよかった。青森県は見所が多い。今度は時間をゆっくりとって行ってみたいと思います。

「不登校」のニュースから考えること

小中学校における「不登校」の児童数が29万9000人となり、10年連続で増加で過去最高らしい。

義務教育が教育サービスの提供であり、文科省が学校というお店を全国展開していとするなら、これもうお客のニーズに応えられていないというか、サービスの低下というか、このまま顧客離れが続くとどうなるんだ!?ということになってきそう。あんた「義務教育」と「商売」を一緒に考えてどうすんだよって言われるかもしれないけど、誤解を恐れずにいうと、いや、これ企業だったらもう終わり、機能不全でしょっていうところまできてるんじゃないかな。

それともう一つ、「不登校」って聞くと、これは「問題」なんだいう論調で語られることが多い気がする。たしかに、お子さんが不登校になって「どうしよう」と困っておられる親御さんがいるのも事実です。いじめで不登校になったとか、学校に行きたくても行けないとかいう事情の場合は「問題」でしょう。しかし、学校に行かない理由に自分なりの明確な意思があって、学校に行かないという選択を本人がしている場合はどうでしょうか。例えば、ずば抜けた才能があるお子さんがいて、小学1年生ですでに小学6年までの授業内容が理解できているとか、スポーツに秀でていて、トレーニングや練習参加のことを考えると学校にいる時間が惜しいとか、そういう人が含まれていてもおかしくないのかなとも思います。

私がここで考えていることは二つあります。

一つは、「不登校」という言葉には、どこか「問題だ」という共通認識がある。裏返せば、学校には登校すべきものだ、という意識がある。これが余計に不登校の児童や親御さんを苦しめているのではないか。

二つめは、義務教育を受ける現場が「学校」しかないので、例えば、オンラインでも授業を受けられるようにするとか、必ずしも学校ではなくても義務教育を受けることができるようにすることが必要ではないか。授業をオンラインで受講可能にすることは担任の先生の負担の軽減にもつながるのではないでしょうか。私、子どもの参観日にいつも思うのだけど、何で担任の先生がほとんど全ての教科を教えているんでしょうね。先生だって得意科目があるだろうし、児童の習熟レベルも教科ごとによって違うはず。社会科を教えるのが得意な先生が社会科を教える講義を市内の小学校に一斉配信すればいい。算数ならそれをレベル別に分けて、「はい、あなたは算数は初級の講義の教室でオンライン授業を受けてね、次の国語はアドバンスの教室ね」って感じでやればいいんじゃないかな、何でできないんだろう。このほうが担任の先生の負担も減るし、教員不足も解消するのではないかしら。一クラス30人いればレベルも様々だから、レベル別にやればいいんじゃないかな。小学生だから対面じゃないと集中力が続かないところがあると思うから、それを各クラスの担任がその場でフォローしてやればいい。

最後に、「みんなと同じでなくても大丈夫だよ」ということをきちんと教えること。学校ではみんなと同じであることが求められますが、社会に出たら「人と違う」ということが評価されるでしょ。学校に行かないという選択をした児童が、学校でなくても義務教育を受けることができて、将来「人と違う」何かで輝くような存在になれますように。

休暇村瀬戸内東予 キャンプ場の景色が素晴らしい

休暇村瀬戸内東予のキャンプ場。

ここのキャンプ場は「日本の渚100選」に選定された海辺のロケーション。

「日本の渚100選」を独占する早朝の散歩が何とも贅沢。

一日一日を楽しく、ごきげんよう

休暇村瀬戸内東予のキャンプ場 砂浜

 

PTAを変えることができるか それは「運」かも

PTAボランティア化を推進しているといっても、当然と言えば当然ですが、一人でできることではありません。何より私は23年4月に役員になったばかりで右も左も分からない状況です。こうした状況の中にあって、会長をはじめ役員のみなさんが新参者の私の意見に耳を傾けてくださるのは、私の意見が目新しいからとか、中身が新鮮だからとか、そういうことではありません。

現役で3年目の会長が、誰でも意見を言いやすい雰囲気を作ってくださっていること、多様なメンバーが役員にいらっしゃる中でそのメンバーに恵まれていること、世の中でPTAを変えようという機運が高まっていること、このおかげです。

要するに、色んな偶然が重なって、より良い方向に変わろうという機運が高まったのであって、本当に「運」というか、「ラッキーだった」と思っています。

仕事でもなんでもそうだと思うんですが、何かを変えるときには、案を考えたり、意見を聞く場を設けたり、手順を踏んでいくことが大事で、その案を考えたり、段取りを付けたりする人には、努力や苦労が伴います。変化を実現して、成果を実感できれば、努力が報われたという喜びもあるでしょう。胸を張れるというものです。そして、そこで頑張れたのは、周りのメンバーに恵まれていたことやときの「運」があったことや、自分ではコントロールできない様々な要素がいい方向に作用したことが大きいはずです。今までほとんどのケースでそうだったし、今回もそう感じます。別に私じゃなくても、変わるときはあっさり変わります。そういうものです。たまたま私が言いだしただけの話で、早晩「ボランティア化」の話はでてきたことでしょう。いまいい雰囲気で議論できているのは、繰り返しになりますが、会長さんがそういう雰囲気を作ってくださっていることが大きいです。この状況に感謝しつつ、私は言い出しっぺとして、役員の責務として、楽しく頑張りたいと思います。

※意見が言いやすいのであって、意見が通りやすいわけではありません。

※「PTA改革」と言われることがありますが、私は「改革」という言葉を使ったことは一度もありません。あくまで「ボランティア化」という言葉にこだわるのは、私の中に「改革」はどこか痛みも伴うような印象があり、本来のボランティア活動に痛みはないという思いがあるからです。また、「改革」というよりも「ボランティア化」というほうがより具体的で率直に伝わりやすいと考えているからです。

一日一日を楽しく、ごきげんよう

PTAの活動が前例踏襲的でムダに見えるワケ

身ノ程知ラズは、23年4月から小学校のPTA役員をやっています。PTAのボランティア化 を進めようとしている当事者でもあります。

前例踏襲的、無駄な活動が多いと、何かと批判も多いPTAですが、実際役員をしてみると、たしかに、前例踏襲的で無駄に見える 活動があるのも事実。今日は活動がそうなってしまう背景について、経験をもとに頭を整理しておきたいと思います。

1.前例踏襲的である

原因:

そもそも半強制的に役員や委員になっており、そういう状況で何かを改善しようという 意見は出てきづらいから。

「このままではいけないのではないか」とか「もっとこうすれば楽にできるのに」とか 、何らかのアイデアや意見を持ちつつも、それを実現するための提案や行動をすること は一層の負担を伴います。ただでさえ、やりたくもない活動を渋々引き受けている中に あって、さらに自分の負担や責任を増やすようなことを言い出す人はいません。 また、デジタル化やICT化を進めようにも、できる人ではなくて、できない人に合わせ ることになります。強制的に役割を割り振っておきながら、それは「できない仕事だった」というわけにはいかないからです。例えば、PCスキルがなくてもできるように配布物は紙のまま、紙をホッチキスでとめて、各クラスに配布する仕分けのために、保護者 がわざわざ学校に集まるということになります。PDFでメール送信すれば済むし、SDGSの観点からもペーパーレス化がいいんじゃないの、ということに多くの人は気づいているでしょう。 強制的な運営が変化を忌避する組織にする。結果として、前例踏襲になりがち。

2.無駄な活動が多い

原因:

人的資源を有効に配置できていないから。

「一人一役」に代表されるように、「負担の平等」を求めていると、効率や生産性が低 下します。例えばこんな議論が起こります(実際にあった例)。地域のとある行事への 協力を一人一役で10名お願いした。しかし、その行事が中止になると連絡があった。PT Aの会合で「じゃあ、この10名については、他の一役をやってもらいましょう」という 話になる。「いやいや、ちょっと待ってください。その行事が必要なくなったんなら、 もうその10名については何もしなくていいじゃないですか。他の一役の活動については 、人数が不足しているんですか?不足していれば別ですが、そうでなければもういいじ ゃないですか」とはならないんですね。効率的な運営よりも、負担することの義務が優 先されてしまいます。強制的な負担の平等を求める組織運営では、何もやらせないわけ にはいかないのです。結果として、人的資源の配置にもムダが発生しがち。

一般の職場やサークル団体ではありえないですよね。 人の貴重な時間を何だと思っているんだ!?ということになるのですが、 そうならない運営がなされている背景には「負担の平等」があり、 それをどこか当然ものと受け入れているメンバー、私自身もその一人ですが、その存在があります。

※一つ一つの活動そのものが無駄と言っているのではありません。活動の運営に「ムダ」があるため、事情を何も知らずに参加した人の目には効率が悪いと映ってしまい、「無駄な活動が多い」と評価されるようになってしまうのです。

コレ、全部教育現場で起こっていることなんですよね。 いや、まぢで子どもたちに恥ずかしくないのかって感じるし、それがボランティア化を進めようという私のモチベーションの源泉になっている。 役員になって驚くことはたくさんありますが、いまどんな組織でどんな構造的な問題を抱えているのか、 それがどう変わるのかを示すっていうのは、気づいた私の責任でもあり、これが役員としてのリーダーシップなんだろうなと思います。

一日一日を楽しく、ごきげんよう